お邪魔してもいい?

4.1.2018

このクリスマス休暇の間、私はフィンランドの雑誌で、人は人生でどれだけ人格が変わるのか?というタイトルの記事をみかけました。

ちょうどKerimäki(ケリマキ)に暮らすひいおばあちゃんのところに行く時だったので、その記事を全部読む時間は無かったのですが。

フィンランドでは、 “kyläillä”という動詞があります。 基本的には「訪問する」という意味ですが、好きな時に頻繁に訪問するというようなニュアンスがあります。

私が子どもの頃、私たちの家族は週に一度くらいは親戚やご近所を”kyläillä”していました。多くのフィンランド人も、そのような感じでした。

でも、もう今はそんなことをする人はいません。

今や訪問= “kyläilyt”は、とても慎重に計画されます。 そう、あまりにも慎重に「訪問」の計画を立て始めると、実現しないままになってしまいます。

それは残念なこと。

まあ、私は社交的というよりは引きこもりがちな性格なので、実際には”kyläilystä”について語るのに適した人ではありません。人と話すよりも、新聞を読んでいるようなタイプの知人がいませんか?それが私です。

このクリスマス休暇中と、最近の6カ月間を除いて、です。

私は人づきあいを、違った感覚で楽しんできたのかもしれません。 コーヒーを飲みながら、考えを分かち合う、ちょうどチャットをしているのが心地よい感じでした。

私は、実際に会った人からいろいろなことを得ただけではなく、なにかお返しもできたかな、と感じています。

(具体的には、おばあちゃんからは、手編みの毛糸の靴下と手作りのライ麦パンを、そして友だちからは、ブラックカラント(黒スグリ、フランス語ではカシス)と Tiisanmäki farm(ティーサンマキ牧場)の 羊肉のソーセージをいただきました:)

ボクシングデー(12月26日)に友だちと一緒にKerimäki(ケリマキ)教会の横でそり遊びをしている時に、私はこの記事のタイトルを考えました。

あなたとあなたの人格を実際に成長させることができるかということが、いかに大切な事なのか。

どのくらい、私たちは自分の周りの文化や習慣を終わらせているのだろうか。

私はこのクリスマス休暇中に、たくさんの特別な時間を経験をしました。 その中で一番記憶に残るのは、もう誰のところへも訪ねて行けない人との時間です。 代わりに、彼は人が来てくれるのを待っているのです。

結局、老人ホームでは、ジュースを飲んだり、クリスマスジンジャーブレッドクッキーを一緒に食べたりはしませんでした。もう、ひいおじいちゃんは食べられないから。でも、私が手作りの「kuksa」(ククサ/白樺のこぶから作るフィンランドの伝統的な木製カップ)を手渡した時、自然の中で一緒にコーヒーを飲んだ思い出の瞬間を共有しました。私は決して忘れません。

メッセンジャーなどのSNSは素晴らしいものです。 この6ヶ月間は、私はこれまで以上に活用してきました。 でも、訪問することは必要です。ハグしたり、触れあい、人が存在していることを感じ、目を見て、ほんの少しの身振りでも気づくことができるから。

新年に、私はこう願いました。 紅茶やコーヒーを一緒に飲み、思いを共有することがどんなにすばらしいかということを、私たちが忘れませんように。

今までのあなたは違ったかもしれないけれど、だからと言ってこれからも出来ないのではない、ということを忘れないでください。

***

誰かを訪問したり、誰かが訪問してくれる時、一緒に食べたり飲んだりすることが多いですよね。そんな時は、SaimaaLifeのレシピでおもてなしを。

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